カオスにトラウマを植え付けられたモルモラットがリハビリする話
【前書き】
この小説は、「遊戯王ADSで世紀末トーナメント」シリーズの三次創作です。作者様である本体氏から掲載許可をいただき、投稿しております。
【1】
全身から血が抜けていく。
壮絶な悪寒に包まれる中、モルモラットは震える手でカードをドローした。
「わたしの、ターン……」
ドロー、という言葉ははっきりとした声にはならず、口の中で潰れて消える。意思とは関係なく小刻みに震える手からカードが零れ落ちそうになり、モルモラットは必死に指に力を込めた。
噛み締めた歯がひとりでに浮き上がり、カチカチと鬱陶しい音を立てている。無理矢理に顎へと力を入れると、彼女の口元に歪に引きつった笑みが浮かんだ。しかしそれは一瞬でくしゃりと弱弱しく歪み、今にも泣きそうな情けない表情へと変わっていく。
――勝てない。
月並みな表現だが、彼女の目の前にあったのは絶望そのものだった。
手札は0枚。フィールドは更地。ライフのみほぼ無傷だが、それが一体何だというのか。
一方で、相手の場には「混沌の黒魔術師(エラッタ前)」が3体並び、今にも彼女の命を刈り取らんばかりに鋭い眼光を向けてきている。その攻撃力は2800、総攻撃力は8400だ。当然、今の彼女のライフを上回っていることは言うまでもない。
しかし、彼女に絶望を与えているのはそれらのモンスター達ではなかった。
ぐるりと周囲を見上げると、モルモラットの視界にモノクロの鎖の牢獄が映り込む。それはデュエルフィールドの全域を隙間なく覆い、使用者の意図に反したデュエリストの逃亡を防いでいる。
使用者。そう、使用者だ。
モルモラットは改めて自分の対戦相手であるプレイヤーに目を向けた。睨みつけたと言っても良い。あるいは、そのつもりになっていただけか。
客観的に見て怯えの感情を隠し切れていないモルモラットの視線を受け、「使用者」がふと彼女に目線を落とす。その瞬間、モルモラットの肩がかくんと跳ねたことに気付いたのか気付いていないのか、そもそも興味すら抱いていないのかは定かではなかったが。
『バトル』
どこか無機質な音が響いたかと思うと、その時を待っていたかのように黒い魔術師がモルモラットに向けて杖を振るった。バチバチと雷撃を上げながら暗黒の球体が生成され、幾秒かの間をおいてそれが彼女へと放たれる。
自分に向かって高速で迫る滅びの呪文は、モルモラットの主観では不思議とスローモーションで飛んできているようにも見えた。あまりにも現実味のないその光景は、攻撃が直撃した瞬間に圧倒的なリアルとなって彼女の目を覚まさせる。
「――っ!?」
衝撃。
身体の半分が丸ごと吹き飛ぶような衝撃が腹部を通り抜け、モルモラットは自分が死んだと錯覚した。次いで視界に閃光が走り、マーブル状の光となって世界を駆け巡る。最後に巨大な拳で全身を打ちのめされたかのような打撃が加わり、やがて周囲に静けさが訪れた。
一瞬遅れて、モルモラットは自分が地面に倒れ伏していることに気付いた。先ほど彼女が殴られたと思った衝撃は、地面にぶつかったときのそれだったのだ。
起き上がろうと腕に力を込めたところで、モルモラットは身体の感覚に強い違和感を覚えた。同時に直感が告げる。気付いてはならないと。
だが、もう遅い。時間差でやってきたダメージがゆっくりと鎌首をもたげ、感覚が麻痺していた彼女に猛然と襲いかかった。
激痛。
灼熱。
かっと見開かれた彼女の目から涙が溢れ、言葉にならないか細い悲鳴が口から洩れる。喉の奥からせり上がる熱い何かが口内に逆流し、そのまま地面へと吐き出される。
血。
モルモラットは最初、目に映った赤いそれが何なのか理解できなかった。認識が追い付いてくるのに少々の時間を費やしたのち、ようやく彼女は自分が血を吐いていることに気付いた。
思考がフリーズして頭の中が真っ白になるとともに、一瞬だけ彼女を苦しめる激痛が遠くへ退いていく。
モルモラットは震える腕をどうにか動かし、溢れ出る赤を止めようと両手で口を押さえた。しかし必死の抵抗空しく指の隙間から血が零れ、辺り一面に真っ赤な池が広がっていく。
やがて指の力すら入らなくなり、モルモラットの両手がだらりと地面に投げ出される。浅い呼吸音に濁音が混じり、断続的に痙攣する指先が微かに土を掻いている。
全身を苛む苦痛。息を吸うたびに肺に鋭く針が刺さる。意識があることが地獄である状況に置かれながら、モルモラットは薄れゆく意識の中で確かに雷撃の唸りを聞いた。
ほとんど確信に近い絶望を抱きながら、モルモラットは顔を上げる。
目の前に暗黒の球体があった。
【2】
誰かの絶叫を目覚ましに、モルモラットの意識が急速に覚醒する。
ばくばくと激しい心音が耳の奥で鳴り響いている。酷く圧迫感のある眩暈に襲われ、彼女は咄嗟に頭を押さえた。幼い少女の華奢な背中にじっとりと汗が滲み、不快な熱気が彼女を包み込んでいる。
しばらく呼吸を整えているうちに、モルモラットは一つの事実に思い至った。先ほどの悲鳴の正体が何であったのかについてだ。
自分以外誰も居ない静かな個室に彼女の荒い息だけが響く。薄い暗闇に包まれた部屋はどこか肌寒く、そして気味が悪い。出所の分からない心細さに苛まれ、モルモラットはぎゅっと毛布を握り締めた。
喉がからからに渇いている。
モルモラットは水を飲もうとベッドから降りようとしたが、不思議と足が動かなかった。このベッドが唯一の安全地帯で、ここを降りた瞬間に得体の知れないものに襲われてしまうのではないか――根拠のない妄想だと分かってはいたが、心の深い部分にまで刻まれた強い恐怖心が彼女の行動を縛り続けているのだ。
唐突に膨れ上がった不安に突き動かされるように、モルモラットは勢いよく照明のスイッチを叩いた。次の瞬間、周囲に温かな明かりが灯り、一瞬で部屋の空気が入れ替わる。
不安は呆気なく去っていった。モルモラットは呼吸の仕方をようやく思い出した。
時計の針が規則的に音を立てている。
しばらく何をするでもなく手元を眺めていたモルモラットはふと顔を上げ、傍にある鏡に視線を向けた。
酷い顔をしている。死人でももう少しマシな顔をしているくらいだ。
いや、実際にあの時にモルモラットは死んだのだ。滅びの呪文を何度も何度も撃ち込まれ、遺体も残らないほど凄惨な最期を遂げた。この世界の神に助けてもらえていなければ、そのまま誰にも知られずに土へと還っていただろう。
あり得た未来がモルモラットの脳裏にまざまざと浮かび上がり、彼女は震える手で毛布をかき抱いた。
どれだけ時間が経ってもあの時のことを忘れられない。今でも両手に血がこびり付いているような気さえする。そもそも自分は本当に助かったのか? 本当は今まさにあの地獄の渦中にあって、泡沫の中で都合の良い夢を見続けているだけではないのか――
「弱いなあ……わたし」
【3】
「で、それってふざけて聞いていい話?」
しばらく熟考したのちに、サラがぽつりと言葉を零した。
「えっ……まあ、違うようなそうでもないような……」
これ以上ないほど堂々と真正面から喧嘩を売られ、モルモラットは曖昧に言葉尻を濁した。あまりにもずけずけとしたサラの態度に、悪いのは自分の方ではないかと考えてしまったのだ。
視線を泳がせるモルモラットをじっとりと見つめていた少女は呆れたようにため息をついた。腹黒の魔窟に住むサラの周りには間違っても存在しないタイプの精霊だった。
モルモラットが視線を戻すと、半眼の眼差しでこちらを眺める少女と視線がぶつかる。背もたれを抱き締めるように逆向きの椅子に座り、縁に顎を乗せている彼女の精霊名は「サラの蟲惑魔」。極めて高い精霊力を備えたカードの精霊にして、この次元内でも有数の決闘力を持つデュエリストでもある。かつての大戦で最後の2人になるまで生き残ったと言えば、その実力のほどが窺えるだろう。
それほどの大物が唐突に自分の見舞いにやってきたと知った時のモルモラットの驚きといったらない。思わず本能を取り戻して狭い隙間に逃げ込みそうになったほどだ。
モルモラットは自分が取るに足らない存在だと自覚している。それは元々の気質も手伝ってはいるが、最も大きな原因としてあの時の体験が影響していることに、彼女自身も気付いていなかった。
「要するにさあ」
サラがあくびをする。
「ヤバい奴に襲われてマジ最悪って感じなわけね」
恐ろしくシンプルにまとめられた結論を聞き、モルモラットは気まずげに俯いて小さくなった。自分の悩みが本当はつまらないものに過ぎないのではないかと思わされたからだ。
――見舞いっていうか暇潰し?
がちがちに委縮していたモルモラットに対し、開口一番に放たれたサラの言葉はそんなものだった。
サラのペースに飲まれ、まるでロボットのように硬い敬語で受け答えをしていたはずのモルモラットが、ごく自然体に戻っていたのは一体いつのことだっただろうか。不自然なほどにサラに気を許していることに気付かないまま、ぽつりぽつりと本音を引き出され、いつしかモルモラットは全ての悩みを彼女に打ち明けていた。
息をするように他人の秘め事を盗み出すサラにとって、悩みを抱える者の心を丸裸にすることなど造作もない。惜しむらくはそれが善意から来る行動ではなく、サラの発言通り単なる暇潰しに過ぎなかったということか。
「怖いんだ、カードを見るのが」
飾らない本音は、小さな病室に不思議とよく響いた。
僅かに一瞬、サラの表情が強張る。できれば聞かないままにしておきたかった言葉だった。
「なんでだろ、なんか全然駄目なんだ。ずっと一緒だったはずなのに、大切だったはずなのに、この子達のせいでこんな、こんな――」
モルモラットは咄嗟に言葉を飲み込んだ。それ以上は口にしてはならない。考えてもいけない。
モルモラットはぎゅっと目を閉じ、両手で耳を押さえて蹲る。
長い沈黙があった。遠くの病室で誰かが何度か咳き込む音がした。
「ごめん」
ゆっくりと顔を上げたモルモラットは酷く疲れた顔をしていた。深く息を吸い、絞り出すように放たれた謝罪の言葉は誰に対してのものだったのか。
吐き出された苦悩を前に、サラは難しい顔をして黙り込んだ。歩き方を知らない人間に、右足の動かし方をどうにか伝えようとしている。そういう表情だった。
「そりゃまあ、ダメージを受けると痛い。デュエルに負けたらもっと痛いし、場合によっては死ぬけど」
ややあって、サラがぽつぽつと言葉を並べ始める。相変わらず、するりと心に入り込むような声だったが、これまでと違って血の通った言葉でもあるようだった。
「んー、だからさ、あー……どう言えばいいんだろ。……でも、どうだったかな、最初は私もそうだったっけ……?」
本音を口にするのには慣れていない。
サラの態度は、つい先ほどまでモルモラットの口を操っていたとは思えないほど要領を得ないものだった。誰かに語り掛けるというよりは、ほとんど独り言を呟いているようにも見える。どこかぼんやりとした顔で虚空を見つめ、何事かに思いを馳せるサラの表情は今にも消えてしまいそうなほどに儚い。
モルモラットは声をかけることができなかった。音を立てることすらしてはいけないように思えた。
窓から風が入り込み、2人の頬を軽く撫でて通り過ぎていく。風で煽られたカーテンの端が壁に触れ、かたりと一度だけ鳴った。
「よし、帰る!」
妙にすっきりした顔でそう言われ、モルモラットは思わず曖昧な笑みを浮かべる。先ほどまでの空気はすっかり消えてなくなったようだった。
何か言葉を返す間もなくサラが勢いよく立ち上がり、そのまま猛スピードでどこかへ走り去っていく。
何らかの深い意図があったのだろう。彼女は本来の出口ではなく、自分で新しい出口を作って帰宅していった。戦闘によって破壊されている。
急に風通しの良くなった病室を呆然と眺め、モルモラットはこの後起こるであろう様々な問題を頭に浮かべた。粉々に砕け散った壁は彼女の未来の姿を暗示しているようにも見える。
嵐が過ぎ去ったような惨状を前に、モルモラットはせめて何か気の利いた言葉でも口にすることにした。
「そう言えば攻撃力2500あるんだったっけ」
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